カミさまのいうとおり!第3話

 しっとりとした空気が肌を包み込む六月。窓から空を見上げれば、重厚感のある鈍色の雲が一面を覆っている。鼻をくすぐるのは、もうすぐ落ち始めるであろう雨の気配だ。梅雨入りはもう少し後になりそうだが、それでも雨は毎日のように大地に降り注いでいる。

 梅雨に降る雨は世間一般から見ると、農家にとっては天の恵みかのように思われがちだ。けれどそんなに簡単なものではない。この時期に雨が多ければ作物は根腐れを起こしてしまうからだ。かといって雨が少なすぎてもいけない。田畑が乾けば、当然の如くそこに植えたものの成長に悪影響を及ぼしてしまう。難しい時期なのだ、梅雨は。

 この気まぐれな天気を操っているのが神だとしたら、農作物の出来栄えなどはまさに『神様のいうとおり』だ。

 

 昼休みを告げるチャイムが校内に鳴り響く。生徒たちは一斉に弁当を鞄から取り出し、仲の良いクラスメイト同士で集まり始める。

 周囲に続くように、私も風呂敷に包まれた弁当箱を机の上に出した。

「じゃーん」

 タイミングを計ったように、私の弁当箱の横に白いレジ袋が置かれた。ニコニコと上機嫌でレジ袋を手にしているのは、友人の宇賀かや子だ。

「かや子、いい加減飽きないの?」

 袋の中身は、彼女の昼食である。もう一週間以上、彼女は同じものを昼食として持参している。

「飽きないよー。だってすごく美味しいもん!」

 そう言ってかや子は袋の中身を机の上に広げた。ラップで包まれた丸いパンが三つ、ころころと転がる。そのうちの一つが床への脱走を試みたが、私は逃すまじとそれをキャッチした。手の中に収まったパンを確認し、ほっと息を吐く。かや子はそれを横で眺めてキャッキャと喜んでいる。

 ――かや子よ、喜んでいる場合ではない。これはあなたの昼食だぞ。

 握った拳が震えるような心境ではあるが、それを彼女に伝えたところで何の解決にもならないのでやめておいた。

 机上にのったこのパンたちは、先月隣町にオープンしたパン屋の商品だ。『天然酵母ブルーベリー&ストロベリーパン』という商品名らしい。名前にある通りこの店は天然酵母パンをウリにしていて、中でも人気なのがこの商品なのだとかや子が言っていた。私も一度彼女に連れられて行ったことがあるが、菓子パンの商品名まではチェックしていなかった。

 普段大人しい彼女が登校するなり「生地に練り込まれたブルーベリーのほのかな酸味と注入されたストロベリージャムの甘味が絶妙なハーモニーを奏でてまるでパンの世界のロミオとジュリエットなの!」と鼻息荒く熱弁していたことは記憶に新しい。『ロミオとジュリエット』が悲劇だという事実は、勿論伝えていない。

 そして『天然酵母ブルーベリー&ストロベリーパン』との出会いの数日後には、彼女はこのパン屋でアルバイトを始めていた。驚くべき行動力には感嘆したが、いかんせん下心がありすぎるので、その辺りが心配の種ではある。

「でもね、かや子。パンばかりじゃ体に良くないわ。日本人の体は、そもそも米を食べて生きるように出来てるんだし」

 大好きなパンを前にしてきらきらと目を輝かせているかや子に、私は言った。弁当の風呂敷包みを広げながら。少し大きめな弁当箱の蓋に手をかける。ぱか、と間抜けな音をたてて、蓋が開いた。やたら弁当箱の中身が白く眩しく見える。それが、空腹による錯覚であって欲しかった。

「うー……」

 輝くような私の弁当箱の中身に、かや子は神妙な面持ちで唸った。

「やっぱり、パンでいいや」

 いただきますと手を合わせ、かや子が一足先にパンを口にした。大袈裟に「おいしい!」と声を上げ、ほっぺたをおさえている。

 手にしていた弁当の蓋を置き、改めて昼食と――否、現実と対峙する。何故、蓋を開けるまでこの違和感に気付かなかったのか。弁当箱の大きさはいつもよりやや大きく、そもそも一段しかない。私の弁当箱は二段になっていたはずだ。この弁当は間違いなく、父のものだった。父の弁当を持ってきてしまっただけなら、まだいい。悲しいことに、父は大食漢である。食べることが大好きなのだ。弁当一つでは足りないと嘆く父のために、母が弁当箱を二つ用意し、毎日ご飯とおかずを別々にしてたっぷりと詰め込んでいる。

「いただきます……」

 静かに、合掌。弁当箱に詰められた、真っ白なご飯に向かって。

 私は、今日ばかりはかや子のパン食が羨ましく思えた。

 ああせめて白旗ではなく、日本国旗であればどれだけ良かったか。

 

「なんだ、おかずなしか? 弁財」

 米の美味しさを存分過ぎるほどに味わっていたところで、私の肩を叩く者がいた。

「……人の弁当を覗き見るとは、デリカシーのかけらもないですね」

 聞き覚えのある声に、振り向かずに答える。かや子は食事中の突然の訪問者に狼狽えることなく、三つめのパンに伸ばしかけた手を止めて「こんにちは」と暢気に挨拶をした。そして軽く会釈をしてから、またパンを食べ始める。彼が、かや子に用があるわけではないと知っているからだ。

 私は無言で、残りの白米を口にかき込んだ。水筒のお茶をコップ代りの蓋に注ぎ、飲み干す。本当ならば健康のためにもゆっくり食事をしたいところではあったが、おかずのない昼食は悲しみが増すばかりであるし、今日のところはよしとしよう。彼との話はきっと手短には終わらない。その点からみても、今日ばかりは早く食事を済ませておいたほうが賢明だ。

「ごちそうさまでした」

 両手のひらを合わせ、呟く。この食事に対して費された全ての労力への感謝の言葉を。農家へ、流通業者へ、販売店へ、両親へ。今日の昼食が白飯のみだったとしても、感謝の心だけは決して忘れてはいけないのだ。

「それで、今日はどういう話でしょうか? 福禄先輩」

 弁当箱を閉じ、風呂敷で再び包み直してそれを鞄に突っ込む。そこでようやく、背後を振り返る。一切の乱れなく制服を着込んだ細身の男子生徒が、眼鏡の奥から私を見ていた。

 彼は福禄仁、バイオテクノロジー学科の三年生だ。農業界再編改革『天高七福神計画』の発起人でもある。

 先月私は彼から計画の概要を聞かされ、それに協力することを承諾した。しかしその後彼と何度か話をして、衝撃的な事実が判明したのだ。『天高七福神計画』と銘打ってあるにも関らず、何と私以外の五人にはまだ計画に対する協力を仰いでいないというのだ。

 彼が言うには、入学式のあった日に六人で私の元に押しかけて来たのは、単なる偶然だったらしい。各人がそれぞれ別の目的をもって、たまたま私のところに集まっただけなのだそうだ。思い返してみれば、あの場で計画のことを口にしたのは、確かに福禄だけだった。

『七福神』と名乗る以上、たった二人で船に乗り込むのはやはり心許ない。つまりは、これからこの壮大な計画を始めるための前段階として、まず残りの五人を勧誘しなければならないのだ。そしてメンバーの説得役には、私が抜擢された。抜擢――と言ってしまえば聞こえはいいが、ハナからそうするつもりで、私を真っ先に勧誘したのだという。入学式で私が披露した死ぬより先に墓場に埋めたいあの式辞を、彼は大層気に入ったようで「あの調子で頼む」と爽やかに言い切られてしまったのだ。褒められている気が全くしないのは、何故だろう。

 福禄は空いた椅子を引き寄せ、腰を下ろした。そしておもむろにアルミホイルで包まれた謎の物体――仮にそれをXとする――を私に差し出した。

「そろそろ、僕らも動き出す頃合かと思ってね」

「……なるほど」

 私の手の上に、銀色に輝くXが落ちる。両手に丁度のる位の大きさのそれは、ほのかに温かい。僅かに、甘く食欲をそそる匂いがした。

 彼が重い腰を上げたのは喜ばしいことだ。百ページにもわたる壮大な計画書を作っておきながら、なかなか実行に向かって動かないことには、私とて焦れったい思いでいっぱいだったのだ。今日この日まで、胸躍らせながら何度計画書を読み直したか分からない。一刻も早く、計画実行にこぎつけたい。そのためにも、他の五人を急ぎ説得しなくてはならないのだ。

 しかし、私の手の上にある謎の物体Xは一体何なのだろうか。彼の言葉は素直に嬉しいが、それとこれとはまた別である。意味がわからない。これはなんだ。まさか私たちが行動を始めるために必要なアイテムだとでもいうのか。これから彼が私に「これを誰某に届けておくれ」とおつかいを頼むのか。初めてのおつかい――Xを無事届け終わり戻った私が見たものは何者かに襲われた無惨な村の姿。おそるおそる自宅に戻るとそこには口から血を流して倒れている福禄の姿が――。

「福禄先輩……惜しい人を亡くしたわ……あ痛」

 Xをじっと見つめながらぽろりと漏らす。勿論それを彼が聞き逃すはずもなく、間髪入れずに額をぴしゃりとはたかれた。ああ、痛い。頭の中からカラカラと音がした気がした。彼の非道な行為で私の脳が東京砂漠の如く乾き縮んでしまったに違いない。この調子で頭に衝撃を受け続ければ、いずれ私は牛舎にいる牛の数もまともに数えられない残念な頭になってしまうのではないだろうか。

「勝手に人を殺すんじゃない。あと、先に釘をさしておくが、君の頭はそれ以上悪くならないからな」

 抗議の言葉が喉まで出かかったところで、彼が言った。私の思考を読み取るとは。おのれ、エスパーめ。きっとハート型のブローチを与えれば、瞬間移動だって出来てしまうに違いない。

 芳醇な紅茶の香りが、私の鼻腔をくすぐる。香りの発生源を見やれば、それはかや子が持参した水筒から漂っていた。彼女が好きなダージリンだ。かや子は注いだ紅茶をゆっくり飲み干すと、ぷはあと息を吐いた。まるで酒呑みのおじさんだ。

「あれ? あれあれ? 何だか美味しそうな匂いがするね」

 食事を済ませたかや子が、早速Xから漂う食べ物の気配を察知する。私の手の中にある銀色の物体Xに、彼女はくんくんと鼻を寄せた。つい先ほどまで呑んだくれオヤジだった彼女が、今度は犬に早変わりだ。

 かや子にせっつかれるように、私はアルミホイルに手をかけた。いつまでもこうやって眺めているだけでは始まらない。とにかく開けてみようじゃあないか。

「ほっ」

 かけ声と共に指で裂けば、ぱりぱりと乾いた音をたててホイルはすぐに破れた。そこからもわりと湯気が立ちのぼる。甘い香りが一段と強まった。

 それを覗き込むかや子が、膨らむ期待に息を飲む。福禄はというと、Xを剥く私をじっと見ているだけだ。

 ホイルの中に、飴色で透き通った物体が見えた。みかんの皮を剥くように、Xが纏った銀の服を切り広げていく。

「これは……」

 広げられたアルミホイルの上。そこには、すっかり火の通ったタマネギがまるごと鎮座していた。ところどころきつね色の焼き色がついている。恐らくホイルに包んで蒸し焼きにしたのであろう。

「Xの正体……タマネギだったのね」

 感嘆の声を、私は上げた。これは、良くできた蒸し焼きタマネギだ。恐らく舌がとろけるほど甘く、そして嫌味のない味に仕上っていることだろう。ああ、分かる。私には分かるのだ。何しろこのタマネギが私に語りかけてくるのだ。「美味しいよ、私を食べて!」と。何て健気で可愛らしい蒸し焼きタマネギなのだろう。私はXこと蒸し焼きタマネギに親しみを込めて『タマ子』と命名した。

 しかしこのタマ子を素人が真似て作ったところで、焦がすか生焼け状態になることは明らかだ。丸ごとのタマネギ全体にまんべんなく火を通し、かつ適度な食感を保つことは意外と難しい。よほどの料理の腕の持ち主か、あるいはタマネギのことを知り尽くした超熟練玉葱職人――ハイパータマネギマイスターの所業に違いない。伝説の存在だと思っていたが、まさか実在するとは。『ハイパータマネギマイスターの作り出した究極の蒸し焼きタマネギ・タマ子』言葉の響きだけで、私は胸が熱くなるのを感じた。

「琴子、Xって何?」

 かや子が首を傾げながら尋ねてきた。

「タマ子よ」

 間髪入れずに私は答えた。

「弁財……タマ子、とは?」

 すかさず、今度は福禄が問いかけてくる。こめかみに手を当てているが、頭でも痛いのだろうか。私の常備薬を後で渡しておこう。

「タマ子とはすなわち、これです!」

 私は両手を高く掲げた。銀の台座に載ったタマネギが、蛍光灯の明りの下で神々しく輝いている。かや子と福禄だけでなく、クラス中の視線が私に、そしてタマ子に集まった。

 ――タマ子……あなたは今、世界で一番素敵なタマネギだわ!

 娘の結婚式で涙する母親に似た思いだ。今私の目から溢れ出しそうな涙は心からのものであり、タマネギに含まれる催涙成分・硫化アリルのせいではない。決して。

 

 

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